アーレントと「軍儀」
その一手に、全体主義は敗北する
──人間はいずれ死んでいく存在だが、人間が生まれたのは、死ぬためではなく、何かを始めるためなのである。
ハンナ・アーレント『人間の条件』§ 34
ここでは、HUNTER×HUNTERのキメラアント編を題材に、ハンナ・アーレント哲学に基づく解釈を行います。
1.役割
蟻が人を喰う。
それは、ただそれだけの話である──はずだった。
だが、物語はその単純さを、静かに破壊する。
アリが、名前を持ち始める。命令に服従しなくなる。
全体のために個がある。キメラアントの社会はそう設計されていた。
そこには自由はなく、ただ「役割」があった。
メルエム──全体のために設計された最強の個。支配の終着点でありながら、支配の限界でもある。
王と呼ばれたその存在が「軍儀」に興味を持った瞬間、それは「ズレ」としての兆しだった。
全体的支配はその目的を実際に達しようとするならば,「チェスのためにチェスをすることを認めない」ところまでいかなければならず,これと全く同じに芸術のための芸術に終止符を打つことが絶対に必要である。
全体主義の支配者にとっては,チェスも芸術もともに全く同じ水準の活動である。双方の場合とも人間は一つの事柄に没頭しきっており,まさにそれ故に完全には支配し得ない状態にある。
ハンナ・アーレント『全体主義の起原3』37ページ
チェスを「軍儀」と置き換えれば,その意味は明らかであろう。
チェスを指すこと。それは意味のない行為のようでいて、脱目的的な遊戯だった。そこには支配も、命令もない。
だが、全体主義は自由を恐れる。自由は予測できず、制御できない。チェスも芸術も、没入という脱目的性のなかに自由を孕む。だからこそ、危うい。支配者はそれを排除しようとする。
それでも、物語の終わりには、排除しきれなかったものが残った。
「自由」を知った王と、ただ指し続ける少女。
全体を超えた関係。生き延びることより大切な、たった一つの何か。それが確かに、存在していた。
──人間はいずれ死んでいく存在だが、人間が生まれたのは、死ぬためではなく、何かを始めるためなのである。
ハンナ・アーレント『人間の条件』§ 34
まさに王は最期「死ぬため」ではなく「何かを始めるため」に、軍儀を打ったのである。
2.名前
かつてアリたちは、名前を持たなかった。
いや、正確に言えば「名前を要しなかった」と言うべきか。
命令が世界のすべてであり、個の思考は不要だったからだ。
摂理は女王の意志であり、行為は種の保存であった。疑いなく、それはシステムとしての完全性に近かった。
だが、システムは退屈だ。退屈は問いを生む。問いは、ズレだ。ズレは、新たな存在の兆しである。
人間という種族を他の生物から区別する特徴は,人間が「誰か」になりうる存在であることにある。
ハンナ・アーレント『人間の条件』§ 25
王は、その「誰か」になってしまった。
「余の名前を教えてくれないか」。その問いは、支配の枠組みでは決して生まれない。
「他者とともに世界に現れ、異なるものとして共に生きることが、人間の本質である」。アーレントはこれを「複数性」と名づけ、自身の哲学の核とした。
複数性のうちでは、自分が「誰か」であることを、自他ともへ明かさなければならない。そのためには「名前」が要る。
最も強い者が、最も「誰か」になってしまうという矛盾。それは決してバグではなく、アーレント的な希望だった。
3.手段
そしてここで、人間側の「全体主義」もまた問われる。その象徴が、ネテロである。
ネテロは「人類の代表」として、王に対峙する。
態度は明晰、覚悟は揺るがない。だが、そこに「対話」はなかった。
彼は王にチャンスを与えない。交渉も、譲歩も、最初から拒否していた。
ネテロにとって重要なのは、「人類という全体」の存続であり、王という「誰か」の変化ではなかった。
この構図は、キメラアントの社会と対照的なようで、鏡像的である。王が「誰か」になろうとする一方、ネテロは「全体」の論理に従い続ける。
もはや彼自身が「誰か」ではなかった。「最強の念能力者」という役割を全うする装置になっていた。
ネテロは命と引き換えに「貧者の薔薇」を起爆する。それが核爆弾を意味することは、想像に難くない。
まさに彼は、「独裁小国家」と同じ方法で、王の命を奪った。
決められた目的を追求するのに有効だから,許容できるから,正当化できるから,という理由でどんな手段でも認めさせるような思考方法がどんなに残虐な結果をもたらすのか。おそらく我々はそのことを思い知らされた最初の世代である。
ハンナ・アーレント『人間の条件』§ 31
ネテロの行動はまさにこの引用に照らされる。
王の説得は、観察されなかった。理解されなかった。必要とされなかった。ネテロにとって、王は対話すべき「誰か」ではなく、排除すべき「脅威」だった。
「人類の存続」という目的のもと、「手段」──人間の底知れない悪意──がすべてを支配していた。
ネテロの姿において、我々はアーレントの語る「全体主義の魅力と危険」を見出す。
理想のために、正義のために、人はときに自らを機械化する。そして「誰か」であることをやめ、「何か」のための装置となる。
人間は、蟻にもなるのだ。 そのことを、この物語は確かに告げている。
4.倫理
では、人間が蟻にならずに済む条件とは何か?
私の考えでは、これにはアーレントの以下の引用が役立つと思われる。
「独りでいて自分自身と意見が合わないよりは、全世界と意見が合わない方がましである」という(ソクラテスの)言明の中には、論理学に負けず劣らず、倫理学の起源も含まれている。
ハンナ・アーレント「自由とは何か」
この引用が面白いのは、「世界と一致すること」ではなく、「自分自身との一致」こそが倫理の起源であるという逆説的な主張である。
我々はつねに、他者に見られている。しかし、その前にまずは「自分自身に見られている」──これが倫理の源泉である。
自分自身と意見の合わない判断は、どれほど多数に支持されようと、倫理ではない。倫理とは、自分が「誰か」であることを、自分自身に晒すところから始まるのである。
多数派の声に紛れず、たとえ世界のすべてと対立しても、自分自身に嘘をつかず、考え続けること。
軍儀盤の向かいに座り、自分自身と対話すること。勝ち負けでも、善悪でもなく、「誰か」として向き合うこと。
それだけが蟻にならずに生きる術であろう。