哲学は何を問うているのか?
数学、物理学との比較
イントロ
哲学では,「時間とは何か?」「道徳とは何か?」といった問いがよく出てくる。
たとえば,「愛とは何か?」と問うとする。しかし、このとき私たちは,何を問うているのだろうか?
- 「本当の愛とはこうあるべきだ」という《理想像》について考えているのだろうか。
- あるいは,日常のなかで人が誰かを好きになったり,大切に思ったり,執着したりする,そういう具体的な《現象》について考えているのだろうか。
- あるいはもっと別に,「愛」という《言葉》が,実際にどんな場面で,どんなふうに使われているのかを調べればよいのだろうか。
この時点で,もうかなり難しい。
「愛とは何か」という問いは,ひとつの問いのように見えて,実はその中にいくつもの問いを含んでいる。だから,いきなり答えようとすると,たぶんすぐに話がずれる。ある人は理想を語り,ある人は経験を語り,ある人は言葉の使い方を語る。そしてそれぞれが,それなりに「愛とは何か」に答えているつもりになる。
哲学のややこしさは,ここにある。いったい何に答えようとしているのかが,最初からあまりはっきりしていない。
数学の「問い」
では,数学ではどうだろうか。
数学にも,似たような問いはある。「数(自然数)とは何か?」「実数とは何か?」といった問いである。
これも,そのまま受け取ると,かなり哲学的である。数とは,どこかに存在しているものなのか。人間が作ったものなのか。それとも,ただの記号なのか。そういう問いが出てくる。
しかし,数学はこの問題を,ある意味でうまく処理(回避!)してきた。
数学は,「自然数とは本当は何か」と正面から問うかわりに,「自然数と我々が呼ぶものが,満たすべき性質は何か?」と問うのである。たとえば,ペアノの公理では,自然数が「持っていてほしい」性質から、自然数を次のように「定義」する。
- $0$ は自然数である。
- 自然数 $n$ の「次の数」$n+1$ も自然数である。
- $0$ は「次の数」にはならない。また,「次の数」は単射な写像である。
- このようなものだけが自然数である。
つまり数学は,「それは何であるか」という問いを,「それはどのような性質を満たすか」という問いへと置き換える。
これは,かなり強力なやり方である。
もちろん,これによって哲学的な問題が完全になくなるわけではない。なぜその公理を採用するのか。数学的対象は発見されるものなのか,それとも作られるものなのか。そういう問いは残る。けれども,少なくとも数学の内部では,対象を性質によって扱えるようになる。問いが,操作できる形に変換されるのである。
このような方法は,数学のいろいろなところに現れる。たとえば代数学ではしばしば「微分」(または導分)を,積の微分法を満たす線形写像として定義する。
$$d(fg)=df \cdot g + f \cdot dg$$
これは,通常の解析学でいう微分そのものとは少し違う。しかし,そこで重要なのは,「微分の本質とは何か」と問うことではない。むしろ,「微分らしいものが満たすべき性質は何か」を取り出すことである。
つまり数学では,あるものの正体を直接つかもうとするかわりに,そのものが果たしている役割や,満たしている性質を取り出して,それを定義にすることがある。
これは,とても数学らしい。
物理の「問い」
一方で,物理学では事情が少し違う。
物理学でも数学は不可欠である。というより,現代物理学は数学なしにはほとんど語れない。しかし,物理学においては,数学的に美しい理論を作っただけでは足りない。その理論が自然を記述しているかどうかは,最終的には実験や観測によって決まる。
たとえば,弱い相互作用を記述する理論を例に考えよう。もちろん,数学的構造の美しさは,理論を作るうえで強い手がかりになる。だが,歴史的にはグラショウが提案した $SU(2)$ ゲージ理論も,ワインバーグが提案した $SU(2)\times U(1)_Y$ ゲージ理論も,同じような数学的な美しさを満たしていた。
実際にワインバーグがノーベル物理学賞を受賞し,グラショウの理論が棄却されたのは,実験で「たまたま」決まっただけである。このように,どの数学的構造が現実の自然に対応しているのかは,数学だけでは決まらない。
数学的に可能な理論はいくつも(例えば,500個)ありうる。しかし,そのうちどれがこの世界を記述しているのかは,実験によってたった1つに決まる(はずである)。
だから物理学において,数学はただの飾りではない。単なる記号でもない。むしろ,物理的な考え方そのものを導いている。しかしそれでも,数学は自然そのものではない。数学は自然を語るための言語であり,その言語がうまく世界を捉えているかどうかは,経験によって確かめられなければならない。
ここに,数学と物理学の違いがある。
では,哲学は「何」を問うのか?
では,哲学はどうなのか。
哲学は,数学のように,「この対象が満たす性質を公理として並べればよい」とはなかなか言えない。かといって,物理学のように,「理論を立てて,実験で確かめればよい」とも言えない。
もちろん,哲学にも基準はある。論理的に一貫しているか。経験と極端にずれていないか。言葉の使い方をきちんと見ているか。概念を明晰にしているか。そういう基準はある。
しかし哲学では,そもそもどの基準で答えるべきなのかが,しばしば問題になる。
「愛とは何か」と問うとき,私たちは理想を問うているのか。現象を問うているのか。言葉の使い方を問うているのか。あるいは,人間が他者と関係することの根本的なあり方を問うているのか。
この区別をしないまま話し始めると,議論はすぐにすれ違う。
そして,そのすれ違いをただの混乱として片づけるのではなく,「なぜこの問いはすれ違うのか」「そもそもこの問いは何を問うているのか」と考え始めるところに,哲学があるのだと思う。
いかにして問題を問うか。これもれっきとした哲学の一つの問いなのだろう。
(なお,アーレントは「〇〇は何か?」という問い以外にも,「〇〇は誰か?」という問いも哲学の問題となりうるのではないか,と「問うている」。これについてはまだ整理できていないので,別のところで述べることにする。)