「良心」の起源——"who"の哲学
ここでは、「良心」の哲学的起源について、私の考える限りで説明したいと思います。
自分自身に「見られる」ということ
突然ですが、皆さんは、”conscience”という英単語の意味をご存知でしょうか。——そうです。「良心」という意味です。しかしこの単語、よく見ると不思議なスペルをしていないでしょうか。
”science”は「科学」という意味です。そこに「共に」という意味の接頭辞である”con”がつくと、たちまち「良心」という言葉になるのです。これは何故でしょうか。
実は、”science”という単語はラテン語の”scio”から来ています。これは「知る」という意味です。つまりconscienceというのは、語源をたどると「共に con」+「知る science」、つまり「自分自身を知っている」という意味です。
しかし、まだ疑問は残ります。なぜ「自分自身を知っている」ことが、良心の起源につながるのでしょうか。
これについては、政治哲学者ハンナ・アーレントの次の文章が良いヒントを与えてくれるように思います。
「独りでいて自分自身と意見が合わないよりは、全世界と意見が合わない方がましである」という(ソクラテスの)言明の中には、論理学に負けず劣らず、倫理学の起源も含まれている。
——ハンナ・アーレント「自由とは何か」
この言葉が意味するところは、こういうことです。まず、アーレントは自分自身が他人に「見られる」ということを重視した人物でした。
これが一番分かりやすい例は政治(民主政治)です。民主政治では、自分が意見を表明するとき「あいつはこんな考えの持ち主で、こういう奴だ」ということが、誰の目にも明らかになります。
つまり、世界に対して「この人はだれなのか」、つまり”who”が明らかになります。
一方で、人間は「他者に見られる」前に、まず自分で自分を「見る」ことができます。これは同時に、人間は「自分自身が他者からどのように見られたいか」を決定できることを意味します。
私たちはつねに「自分に見られている」のであり、同時に、「他者とどのように見られるのかを決定できる。
これが、良心の起源です。
最後に、ソクラテスの次の教訓を座右の銘として、今回は筆を下ろそうと思います。
独りでいて自分自身と意見が合わないよりは、全世界と意見が合わない方がましである。