「推し活」の盲目性
推しではなく「推している自分が好き」な人々
イントロ
推し活について考える。
もちろん、何かを好きになること、人が何かに夢中になることは、きわめて大事なことである。
何かに惹かれる。心が動く。日常のなかに、その対象が入り込んでくる。そういう経験が感性を育てたり、人生を豊かにする。
けれど、問題はその先にある。
推し活が、「推し活」から、「推し活をする自分をアピールすること」に変わる瞬間がある。
そのとき、「好き」は少しずつ、自分のものでは無くなっていく。
推している「自分」が好き
このような形態の推し活について考えてみよう。
たとえば、コラボカフェに行ってインスタに投稿する。限定グッズを買ってサムネイルにする。推しが「たこ焼き作って投稿して」と言ったら、作ってSNSで投稿する。もちろん、それ自体は楽しい。
けれど、その行為がだんだん「私はこういうものを好きな人間です」という他者へのアピールになっていくことがある。もっと言えば、「私はこれが好きであるべき」という、アイデンティティの構築へとすり替わる。
これはけっこう怖いことだと思う。なぜなら、「他人にどう見られたいか」が前に出てくるだけで、「自分は本当に何が好きなのか」が分からなくなっていくからである。
「推しが好き」なのか。「推しを愛している自分が好き」なのか。この二つはかなり違う。
「好き」は本質的に孤独な営みである
本来、何かを好きになることには、少し孤独なところがある。
誰にも説明できないけれど、なぜか惹かれる。みんなが褒めているからではなく、自分のなかで勝手に火がつく。その火を眺めながら、「自分はなぜこれに惹かれるのだろう」と考える。
哲学者のプラトンは、考えることを以下のように定義した。
考えるとは、自分自身との孤独な対話である。
これのわかりやすい例は勉強である。
勉強は机に座って一人でやらなければならず、これは本質的に孤独である。この「孤独」に耐えられない人は、勉強ができない人ということになる。
今回の推し活も、これと本質的には同じである。
「自分にとって本当の『好き』とはなんだろう?」と独りで問い続ける。これによって人は感性が養われ、人生を豊かにする。
このとき、インスタはなんの意味も持たない。
そのためには普通、まずは色んな作品を観なくてはならない。映画なら、いろいろな映画を観なくてはならない。そうでなければ、作品を「味わう」感性は養われない。そして、考えなくてはならない。
「孤独」に耐えられない「推し活者」
しかし、「推し活」を激しくしている者の中には、他の作品を楽しむことを避ける者もいる。「推し」以外に時間を割いていられないのである。
感性は固定化され、どんどん貧しくなっていく。
そして、さらに状況は深刻である。SNS化した推し活に「孤独」はない。いや、孤独がないというより、孤独になる前に投稿してしまう。自分のなかで問い続ける前に、他者の視線へと差し出してしまう。
自分だけの感動が、定型句に回収されてしまう。すぐにパッケージ化される。
「推し尊い」 「ヤバい」 「ビジュよすぎ」 「優勝」
しかし彼(女)らは、この言葉の具体的な意味についてすぐに語ることができない。「ヤバい」という言葉でしか語れない。
なぜか?──実のところ、彼(女)らは何も感じていないからである。
《観念》の消費
「何も感じていない」とはどういうことか。もう少し深堀りしてみよう。
哲学者の國分功一郎は、消費の特徴について次のように述べている。
人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収するのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』P.152
これの典型例が「推し活」であることは、言うまでもないだろう。作品を見る。音楽を聴く。演技に触れる。物語を読む。そういう経験よりも、「コラボに行った」「グッズを買った」「写真を撮った」「投稿した」という《観念》のほうが前に出てくる。
消費されているのは作品だけではない。作品の周辺にあるイベント性であり、参加したという事実であり、要するに《観念》である。
このとき、彼(女)らは作品そのものを味わっていない。
これは、20世紀の消費者社会に生きる大衆の生き方を批判した、フロムの以下の言葉にぴったり当てはまる。
全員が同じ命令に従っているにもかかわらず、誰もが、自分は自分の欲求に従っているのだと思いこんでいる。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』P.34
推しを見ているようで、実は「推しを推している自分」という観念を味わっている。
本来、「作品を楽しむ」というのは、その作品を「味わい、自分の感性を豊かに育む」営みだったはずである。しかし、そのような行為はこの中にはない。
だから、実のところ、彼(女)らは何も感じていない。
幸福を見せ、幸福を見失う
最後に、このような話題について論じる以上、消費社会との関係についても補足的に触れておこう。
20世紀の哲学者のエーリッヒ・フロムは、現代人は「幸福とは自分で作るものではなく、商品として買うものだと考えるようになった」ことを批判した。これはかなり今の状況に近い。
今日の人間の幸福は、「楽しい」ということだ。楽しいとは、何でも手に入れ、消費することだ。商品、映像、料理、タバコ、人間、講義、本、映画などを、人々はかたっぱしから呑み込み、消費する。世界は、私たちの消費欲を満たすための一つの大きな物体だ。大きなリンゴ、大きな酒瓶、大きな乳房なのだ。私たちはその乳房にしゃぶりつき、限りない期待を抱き、それでいて永遠に失望している。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』
幸福は、努力してつかみ取るものではない。お金を払えば、与えられる。グッズを買えば、愛を証明できる。
これはある意味「受動的な幸福」であって、本来自ら掴むはずの「能動的な幸福」とは異なる。しかし一方で、それでも「幸福」であることに違いはない。
しかし今回の場合は、受動的な幸福ですらないことに注意しよう。それは趣味でありながら、自己演出である。愛でありながら、承認欲求である。自由な楽しみでありながら、消費社会のレールでもある。
そして、人はそのなかで、だんだん「幸福」を失っていく。最後には、自己欺瞞だけが残る。
愛とは何か?
推し活者は、本当に推しを愛しているのだろうか。ここで、フロムの議論をもう少し借りながら考えていきたい。
フロムよれば、愛とは、誰かに好かれることではない。選ばれることでもない。むしろ、愛とは技術である。もっと言えば、誰かを愛するために、自分の側を鍛えていく技術である。
「与える」という意味で人を愛することができるかどうかは、その人の性格がどの程度成熟しているかということを意味する。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』P.48
これはけっこう大事なことだと思う。
愛するとは、相手をよく見ることだ。知ろうとすることだ。理解しようとすることだ。自分の欲望だけで対象をつかまえることでは決してない。
しかし、資本主義のなかでは、この能動性が反転する。
人は、どのように愛するかではなく、どのように「愛されるか」を考えるようになる。どうすれば選ばれるか。どうすれば魅力的に見えるか。どうすれば市場のなかで価値のある存在として扱われるか。愛の問題が、いつの間にか、商品価値の問題になる。
たとえば、恋愛の場面で「あの人はいい物件だ」と言うことがある。かなりすごい言い方である。人間が、家やマンションみたいに語られている。条件がよい。将来性がある。安定している。そういう評価の対象になる。
その他にも、フロムの主張を裏付ける言葉は、色々見つけることができる。
「恋愛市場」 「愛されコーデ」 「愛されメイク」 ・・・
けれど、その言葉の中心にあるのは、「私はどう愛するか」ではない。「私はどう見られるか」である。自分の能動性ではなく、他者の視線のなかで価値づけられる自分が問題になっている。
愛することが、愛されるための自己演出に変わる。
そして、この反転は推し活にも入り込んでいる。
自分が「愛される」ための推し活
推し活者は、本当に推しを愛しているのだろうか。もちろん、ここでいう愛は、恋愛の意味ではない。対象をよく見て、よく聴いて、よく考えて、その魅力に自分の側から近づいていくという意味での愛である。
だが、SNS化した推し活では、この愛する技術が弱まることがある。
推しをどう理解するかよりも、推しを推している自分がどう見られるか。作品をどう味わうかよりも、その作品を好きな自分がどのように見えるか。現場で何を感じたかよりも、現場に行った自分がどれだけ充実して見えるか。
そこでは、推しは愛の対象であると同時に、自己演出の素材になる。
ここで、愛はねじれる。
それはもう、推しを愛する運動ではない。自分が孤独に陥らず、愛されるための運動である。
孤独な推し活
色々と述べたが、ここまでの話には前提がある。それは、推し活が他者へのアピールと結びついている、という前提である。
もし、誰にも見せない推し活があるなら、話は変わる。インスタにも投稿しない。グッズを見せびらかさない。誰かに「私はこれが好きです」と証明しようとしない。ただ、自分の部屋で作品を見る。台詞を思い出す。その対象について、ひとりで考える。
そういう推し活があるなら、それはかなり違う。そこでは、推しは自己演出の道具ではなく、自分自身との対話を始めるための入口になる。
完全に孤独な推し活は、ありうるのだろうか──
もしこの問いに肯定的に答えられるのであれば、問題は推し活そのものではない。問題は、推しを愛することが、自分を問うことから逃げる手段になることである。
この問いを投げかけて、今回は締めようと思う。